奈良まち 散策コース
興福寺五重塔(こうふくじごじゅうのとう) → 南円堂 → 采女神社(うねめじんじゃ) → 猿沢池 → 率川(いさかわ)の地蔵 → 恵比寿神社(えびすじんじゃ) → 猿田彦神社(道祖神)(さるたひこじんじゃ) → 住吉神社 → 奈良町物語館 → 奈良町資料館 → 庚申堂(こうしんどう) → 御霊神社(ごりょうじんじゃ) → 法徳寺(ほうとくじ) → 十輪院(じゅうりんいん) → 金躰寺(こんたいじ) → 今西書院 → 不審ヶ辻子(ふしんがづし) → 猿沢池 → 五十二段 → 興福寺五重塔
730年光明皇后の発案で創建。高さ50.8m。日本第二位の高さ。今まで5度の火災にあっている。現在の塔は1421年の建築。明治5年に廃仏毀釈で興福寺自体廃寺になった。 塔も25円で売却後、燃やし金具を取る予定が、住民の反対で中止になって塔は残った。
西国三十三カ所 第九番札所として厚い信仰を集めている。藤原氏の信仰の中心でもあった。 空海の提案で創建。
天皇の愛を失い猿沢の池に身を投げた美しい采女を弔って創建。采女は池を見たくなかったため、一夜にして建物が池に背を向けたという。
749年に興福寺の放生池として造成。「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず藻は生えず、魚が七分に水三分」と云われています。 遠く竜宮と通じ芥川龍之介の小説にも竜が舞上がったと書かれています。
(いさがわのじぞう)
猿沢池のほとり、舟形の台に乗っている地蔵。 この辺りが、上ツ道の出発点である。
(えびすじんじゃ)
春日大社末社。初戎(1月5日)は特に賑わい、多くの人を集める。昭和45年まで芸姑を乗せた宝恵籠が出た。
(さるたひこじんじゃ)
さいの神・猿田彦が祭られている。勝負の神。 御霊さんとサイコロ賭博をした道祖神さんは完敗、博打の形に氏子全員・身ぐるみ剥がされ、破れた蚊帳のみ残ったという。
ここはまちづくりに携わる人々が集い、交流し、まちを楽しくする情報発信基地として、伝統的な町家を修復し、平成7年4月にオープン。
ならまちに古くから伝わる様々な生活民具や古書、仏像、漆器等を展示し、魔除けの「身代わり猿」を売っています。
(こうしんどう)
江戸時代の末期に建った伝統的な商家を改装して、ギャラリー、喫茶、バーが入っている。 表の間は、「ならどっとFM」が生放送オンエアするサテライトスタジオ。
(ごりょうじんじゃ)
聖武天皇の娘・井上内親王は光仁天皇の后になられたが、藤原百川の進言で皇后の地位と息子他戸親王の皇太子の地位を剥奪され、悲惨な獄死を遂げる。新たな皇太子が後に桓武天皇になられた。平安時代になり藤原百川が亡くなり、災害が続発、二人の祟りと考えられ、京都の御霊神社・奈良の御霊神社と創建された。他の不遇の死を遂げた人々を合祀している
(ほうとくじ)
元は、元興寺の別院・多聞院。1605年、陪厳上人が融通念仏宗の寺院として再興。本堂、観音堂、毘沙門堂がある。毘沙門天は、信貴山の本尊であったと云われている。
(じゅうりんいん)
吉備真備の子・魚養(なかい)の建立、魚養は空海の書の師。空海創建説もある。本堂も有名であるが、その裏にあるお地蔵様を中心とした石仏がん(石壁のくぼみ)が本尊です。 遣唐使として唐にいた吉備真備の子・魚養は大魚の背に乗り大阪へ着いたと宇治拾遺物語に書かれている。
(こんたいじ)
開基は元興寺の道昭とされているが、詳細は不明。1637年に本堂は再建。
もと興福寺の坊官、福智院家の住宅で、室町時代の様式をよく伝える書院造りの建物が国の重要文化財に指定
(ふしんがづし)
昔、元興寺の鐘楼に時々鬼が現われて人々を悩ませていた。その頃元興寺には雷の申し子だといわれるほど怪力を持った僧がいて、鬼を退治しようとして争ったが、なかなか勝負がつかず、ついに夜明けになったので鬼が逃げ出した。僧はその後を追ったが、鐘楼の北東に当たる辻子の辺りで鬼の姿を見失ってしまった。今まで見えていた鬼の姿が見えなくなったので不審に思ったところから、この辻子を不審ヶ辻子(ふしんがづし)と呼ぶようになった。
采女神社の采女が着ていた衣服を柳に掛けて猿沢の池に身を投げた。その柳の子孫が今もある。
善財童子が53人の知識人を訪ね事に由来する「五十二段」の石段。また、石段の下は、東西南北、石段も含めて放射状に6筋の道が交差し、六道の辻と云う。
奈良町散策コースの終点です。